椒古墳

ページID1000922  更新日 平成30年10月1日

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写真:椒古墳


この古墳の原形は前方後円の砂丘式古墳であったが、現在は後円基底部のみが残存している。従来これを「経塚」と称し、「日本霊異記」にある長屋王(天武天皇の皇孫高市親王の皇子729年没)伝説に関係があるものと考えられ、土地の人々の尊崇するところとなっていた。古墳は明治41年(1908年)に発掘され、銅鏡、冑、鎧、刀、槍、斧、石枕、管玉、土師器、金銅装具の残片などが出土した。遺物は現在東京国立博物館に保存されているが、武具などにあった六弁の桜の紋様は、初島小学校の校章や校歌に用いられ、大正3年には古墳上に「長屋王霊蹟之碑」が建立されました。その後、考古学上の調査研究の結果、この古墳は、古墳時代後期初頭(5世紀頃)前後に建設され、更に出土品の蒙古鉢形冑、四乳花文鏡などから大陸文化と関連性が深いことが指摘された。この古墳には定まった名称はなく、一般に「椒古墳」として知られている。

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